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平和 広島教区内のよびかけ、とりくみ

⑪原爆の子の像

⑪原爆の子の像(折り鶴の奉納はこちらです。)

この像は、2歳で被爆し、その10年後白血病で亡くなった佐々木貞子さんの死をきっかけに、同級生が呼びかけ日本の学校9か国の寄付をもとにつくられた。像の背後には折り鶴が奉納され、平和への祈りがささげられています。

【参考文献】
「被爆50周年未来への記録 ヒロシマの被爆建造物は語る」
                広島平和資料館 1996
「ヒロシマ散歩原爆遺跡・戦跡をたずねて」植野浩 
                     汐文社1997 
広島市ホームページ

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⑫韓国人原爆犠牲者供養塔

⑫韓国人原爆犠牲者供養塔

1970年韓国人被爆者入れのために、朝鮮王家の一族李殿下が被災後にその姿を発見された場所に近いという本川橋西詰に建立。その後平和記念公園内への移転について各方面から強い要望が出され、1999年広島市との協議により現在の場所へ移設された。

広島に原爆が投下された当時、朝鮮半島から渡ってきた数万人が犠牲になったといわれていますが、詳しい人数は現在でも明らかになっていない。

2023年G7広島サミットのために来日した当時の韓国のユン・ソンニョル(尹錫悦)大統領と岸田文雄総理大臣(広島1区)は揃って韓国人原爆犠牲者慰霊碑に祈りをささげた。日韓両国の首脳が慰霊碑に参拝したのは、初めてとなった。

【参考文献】
「被爆50周年未来への記録 ヒロシマの被爆建造物は語る」
                広島平和資料館 1996
「ヒロシマ散歩原爆遺跡・戦跡をたずねて」植野浩 
                     汐文社1997 
広島市ホームページ

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⑬原爆供養塔

⑬原爆供養塔

この供養塔には、世界最初の原子爆弾の投下(昭和20年8月6日午前8時15分)による犠牲者約7万柱の遺骨がおさめられている。爆心地に近いこの地では、多数の遺体が収容され、火葬が行われた。

 昭和20年広島戦災供養会が創立され、市民により仮供養塔、仮納骨堂、礼拝堂が建立、現在の供養塔は昭和30年広島市が中心となって建立され、各所に散在していた遺骨をここに納めた。毎年8月6日を中心に慰霊祭が執り行われている。

毎年、名前のわかっている供養塔に納骨されている納骨名簿が発表されている。この名簿によって、1002名の遺骨が遺族の元に戻りましたが、被爆79年と時を経て、年々問い合わせが減少しています。
(2024年 原爆供養塔名簿 813名)

【参考文献】
「被爆50周年未来への記録 ヒロシマの被爆建造物は語る」
              広島平和資料館 1996
「ヒロシマ散歩原爆遺跡・戦跡をたずねて」植野浩 
                  汐文社1997 
広島市ホームページ

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②臨時帝国会議 跡地

③臨時帝国議会 跡地      中区基町9

明治27(1894)年10月18日から22日まで第7回臨時帝国議会が開かれ、国家予算の2倍の戦費1億5千万の戦争予算を決定。その時の内閣総理大臣は伊藤博文。

伊藤博文は初代朝鮮統監だった1909年、ハルピン駅で朝鮮民族主義活動家トマス安重根(アン ジュングン)に暗殺された。安は、カトリック信者。伊藤博文の死により日韓併合は加速された。(1910)

ビルの谷間にひっそりと碑だけ残っています。

【参考文献】
「被爆50周年未来への記録 ヒロシマの被爆建造物は語る」
                広島平和資料館 1996
「ヒロシマ散歩原爆遺跡・戦跡をたずねて」植野浩 
                     汐文社1997 
広島市ホームページ